お知らせ

持田建築十一代目棟梁

持田磯市の歩み

~苦難を乗り越え、技と心を受け継いだ職人の人生~

持田建築は代々大工職を生業としてきた家系です。

その長い歴史の中で、持田磯市は持田家十一代目の棟梁として生まれました。

しかし、その人生は決して恵まれたものではありませんでした。

幼くして父を亡くし、母とも離れ、曾祖父母に育てられながら少年時代を過ごしました。それでも多くの人々の愛情に支えられ、大工として成長し、やがて数多くの社寺建築を手掛ける棟梁となりました。

この文章は、磯市本人が晩年に記した手記をもとに、その歩みをまとめたものです。


幼くして訪れた悲劇

持田磯市は明治40年(1907年)1月26日に生まれました。

姉が二人いましたが、長女は幼くして亡くなり、次女のフミも近所で評判になるほど可愛らしい子だったと伝えられています。

ところが明治41年、姉フミの七五三のお祝いを迎えようとしていた矢先、持田家に大きな悲劇が起こります。

当時、父の善市は日本海沿岸でも仕事をする大工で、漁師から直接魚を買うこともありました。その魚が原因となった中毒事故によって、父・善市と姉・フミが同じ日に亡くなったのです。

父はわずか二十六歳。

姉は五歳でした。

まだ一歳だった磯市に記憶はありませんが、この出来事によって持田家の運命は大きく変わることになりました。


曾祖父母の愛情

父の死後、家の暮らしは苦しくなりました。

当時はまだ電気もなく、石油を燃やすカンテラが灯りの時代でしたが、それさえ満足に使えないほどの生活だったといいます。

ある夏の夜、二歳になったばかりの磯市は暗い部屋で目を覚ましました。

隣で寝ているはずの母の姿はありません。

泣きながら暗闇を這い回り、母を探し続けました。

どれほどの時間が経ったのでしょうか。

異変に気付いた曾祖母フナが駆けつけ、背中におんぶして本宅へ連れて帰ってくれたそうです。

その時の曾祖母の背中の温もりを、磯市は七十歳を過ぎても忘れられないと記しています。

後になって思えば、二十七歳だった母にも様々な事情や苦しみがあったのでしょう。

やがて母は家を離れ、磯市は曾祖父・仲三郎と曾祖母・フナによって育てられることになりました。


持田家の系譜

持田家は代々大工を生業としてきました。

曾祖父の仲三郎は大野村の金築家から婿養子として持田家へ入り、大工職を受け継ぎました。

その娘であるムネが磯市の祖母です。

祖母ムネも家付きの娘であり、角家から婿養子として友市を迎えました。

しかし友市は家を離れ、祖母ムネも再婚のため米子へ移ります。

その結果、父・善市は祖父母に育てられることになりました。

そして磯市もまた父と同じように、仲三郎・フナ夫妻の深い愛情のもとで育てられたのです。

磯市は後年、

「何かの因縁かもしれない」

と記していますが、それ以上に二人の献身的な愛情への感謝を繰り返し語っています。


父・善市の遺したもの

父・善市もまた優れた大工でした。

二十五歳という若さで、大龍寺本堂新築工事の棟梁を務めるほどの腕前を持っていました。

しかし完成を見ることなく亡くなります。

その後行われた上棟式では、三歳になった磯市が父の代理として高座に上がりました。

木挽職人の文太郎に抱かれながら式に参列したそうです。

その光景を見た人々は皆涙したと後に聞かされました。

さらに、その日には家を離れていた母も式場の外まで来ていたといいます。

幼い磯市にとっては、ただ母に会えたことが嬉しかった。

その時の複雑な心情を、晩年になって静かに振り返っています。


貧しいながらも幸せだった少年時代

大正4年、東村尋常高等小学校へ入学しました。

教科書は先輩のお下がり。

鉛筆や紙も十分ではありませんでした。

それでも友人たちに助けられながら学びました。

磯市は、

「友達や同窓生は血肉を分けた兄弟のように思える」

と書き残しています。

今振り返れば、貧しさも両親との別れも決して不幸だけではなく、自分を育てるための大きな恵みだったのだと感謝の気持ちを述べています。


故郷との別れ

小学校五年生の頃、米子に住む祖母ムネが迎えに来ました。

高齢となった曾祖父母だけでは生活が難しくなったためです。

故郷を離れる日、同級生たちは学校の近くまで見送りに来てくれました。

さらに作りかけだった工作品まで持って来てくれ、

「達者でな」

と声を掛けてくれたそうです。

その思い出は晩年になっても涙が出るほど忘れられないものでした。


米子への旅

汽船「千鳥丸」に乗り、小境灘から松江を経由して米子へ向かいました。

夕暮れの港に着いた後は、祖母の後ろをひたすら歩き続けます。

聞き慣れない言葉。

見知らぬ町並み。

そして暗い道。

不安な気持ちで歩いていると、遠くに大きな光が見えてきました。

祖母は、

「あれは関の灯台の灯だ」

と教えてくれました。

学校で学んだ地図を思い出しながら、自分がどこへ向かっているのかを想像したといいます。

こうして磯市の新しい人生が始まりました。


十一代目棟梁へ

米子での生活は決して楽なものではありませんでした。

後に家族から聞いたところによれば、幼い磯市には過酷ともいえる労働が待っていたそうです。

そして数年後、故郷へ戻った時には、自分を育ててくれた仲三郎とフナはすでに他界していました。

十四歳頃になると、親戚であり後に師匠となる角長次郎のもとへ弟子入りします。

持田家に代々受け継がれてきた大工の技を学び、やがて十一代目棟梁として独り立ちしました。

その後は数多くの社寺建築を手掛け、地域の人々から信頼される棟梁となります。


持田建築の原点

持田磯市の人生は、決して順風満帆ではありませんでした。

しかし、その歩みの中には常に人への感謝がありました。

父母との別れ。

曾祖父母の愛情。

友人たちとの絆。

師匠との出会い。

それらすべてが、十一代目棟梁・持田磯市を育てたのです。

持田建築は、そうした先人たちの想いと技術を受け継ぎながら今日まで歩んできました。

私たちはこれからも、代々受け継がれてきた大工の誇りと感謝の心を忘れることなく、一棟一棟を丁寧に造り続けてまいります。

持田建築十一代目棟梁 持田磯市。

その人生こそが、私たち持田建築の原点です。

「磯市四〇年祭記念」

磯市が若き日に活動の拠点にしていた建物がいまだに健在です。

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