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「温故知新」に触れて
「温故知新」が、Renoizumoの原点です。
古くからの職人の技術を、後世に伝え、残していくとともに、木造建築を通して、「豊かな心」を人々に持ち続けてもらいたいと思っています。
このたび、私たちがリノベーションを行うことになったのは、築210年の歴史を持つ、江戸時代のかつての庄屋様のお家。当時の職人の技術と感性が存分に注ぎ込まれた、まさに「温故知新」に触れられるこの古民家を、ぜひ紹介したいと思います。
遠く石見から運ばれてきた「石州瓦」の赤い屋根
こちらが、今回手がけさせていただくお家です。以前、経年劣化の修繕が行われ、ガルバリウム鋼板にすっぽり覆われることになった大きな屋根は、本来は茅葺の外観で、今もそのままの形で下に残されています。
現在ではもう茅葺き職人は出雲市内にはいなくなり、他地域から呼んでこなければいけなくなりました。かつての趣を再現し、その歴史を後世に伝えるために、このガルバリウムをもう一度めくってみるのもいい方法かもしれません。
縁側の方の屋根に使用されているのは、「石州瓦」の赤瓦。石州瓦は、まず石見の瓦工場から運び出したものを船に乗せ、日本海を渡って出雲の河下港に下ろし、さらにそこから瓦を積んだ重い荷車を、人力や牛で引いて山道を移動させてこなければなりません。ましてやここは標高200mの地。時間もお金もかかったことでしょう。さすがは庄屋様、といった風格の立派な屋根です。
「捻じれ倒壊」を防ぐ、玄関土間の「丸太組み」
こちらが玄関土間。天井も高く、米俵やお茶の葉を、ここでたくさん取り扱っていたと思われます。
天井に見えている大きな「丸太組み」ですが、このように丸太を組み合わせることで、水平面に「ひし形」に捻じれなくなる、つまり「水平面剛性」が保たれるので、「捻じれ倒壊」を防げますし、同時に「屋根面剛性」も保たれます。このような現在の構造計算に出てくる技法が、当時の「大工の技術」として、当たり前に完成していることに驚くばかりです。
この家が建てられた時代には、重機などの運搬手段は当然存在しませんでしたので、木材は付近に自生していたものを用いました。この島根半島には、直径が1mを超える巨大な黒松がたくさんあったようで、その松の木1本で、客間2間の造作をするのが最高のステータスだったようです。
とりわけ驚くのが、8帖の床の間まで「長押」を差し込む木材を得るために、山中で原木を5mほどに切ったものをふもとまで下ろしてきて、製材をしていた、ということ。それはそれは重労働だったことと思います。これほどに大きな木を、いったい何人の人夫がいたら担げるのでしょうか?弁慶のような力持ちがいっぱいいたのでしょうか?
棟上げの宴席では、木挽が大工より頭の席に座ったようです。製材が家造りの一番最初の仕事でもあり、また家の大きさを決める設計の役割も担っていたからだと聞いています。
ところで当時は、筋違や火打などの斜め材を入れることは良しとされておらず、組手の直角を維持できない仕事をした、と笑われたようです。
「田の字の家」を支える「差し鴨居」
玄関土間の丸太組みに続いて、もう一つ大きな仕掛けがあります。それは、この障子の上にある「差し鴨居」。
柱が、桁と玉石基礎の中間で、「差し鴨居」によって繋がれているのがお分かりでしょうか?(ケーブルが横に走っているところです)神社の鳥居や相撲場のように、「抜き」を通して柱に繋いでおり、筋違の代わりをさせているようでもありますし、鴨居が梁と一体となっているかのようでもあります。
これは構造上、壁がないことで支えが弱くなる「田の字の家」を成り立たせる上で、とても画期的な工法だったと思います。差し鴨居による支えがあることで、障子や襖を外し、8帖の4間から6間ぐらいをつなぐことができようになったというわけです。そしてその「田の字の家」によって、個室から集会所、結婚式や葬式まで、家をフレキシブルに使いこなせる、フリースペースの文化が生み出されました。
もっとも、現在のように少人数の家庭では、こうした押し入れのないようなつくりの家は維持できないでしょう。布団や枕といったものは蔵の中にあり、使用人など誰かがそれらを運んでこなければ、ただ畳があるだけの空間にすぎません。手の届く所に必要なものを置いていないので、生活上、誠に使い勝手が悪いのです。
かつて手作りのかまどがあった「通り土間」
玄関から台所を通過して後ろの庭へと出る、「通り土間」。こちらは現在も使っておられるため、残される予定です。
かつてここで「かまど」を手作りしていました。かまどは泥で作っていたので、熱に弱く、数年ごとに作り替えなければいけません。このような広い台所用の土間で、あらかじめ替え時をみはからって次のかまどを作るなどしていたのだと思います。
もちろん火の粉も飛びますので、高い天井が必要だったことでしょう。丸いスレートの煙突もない時代、天井の茅に燃え移って火事にならないよう、慎重に気を配ったことと思われます。
粘り強く、腐らず、重みに耐える「欅」の柱
この重要なところの柱として使われているのは、欅(けやき)の木です。
欅は固く、粘り強く、そして白蟻にも水にも強い最高の木です。多くの「堂塔伽藍」も、欅の柱を使用しています。「千年建物を持たせるには、千年経った木を使え」と昔の職人は言っています。まさに、欅はそれを実証している木です。
伝統的な和風の建物の縁側は、柱間隔が4.0mほどありますので、1本の柱にかかる重量は相当なものです。105ミリ角に対し、120ミリ角で1.3倍、180ミリ角で2.9倍の断面積があり、その割合で同じく強度が上がります。昔は積雪も多かったため、現在の柱の標準サイズである105ミリ角では持たないのです。(ただし、現在の住宅は25坪程度、柱間隔も910ミリなので、何の問題もありません)
上の写真の欅の柱は120ミリほどと決して大きくはありませんが、スギやヒノキであれば、180ミリはなければ持たなかったかもしれません。それほどに欅は、粘り強い、良い木です。
雨と日差しを防ぐ、「錣」(しころ)屋根の縁側
最後に、こちらの縁側の役割について触れたいと思います。この家が造られた当時は、この縁側には現在のような建具はなく、障子があるのみでした。縁側だけで、軒先までの雨と、そして夏の暑い日差しも防いでいたのです。その後、大風が吹くと障子が飛んだり壊れたりするので雨戸を建てるようになり、さらにそれでは暗いので、ガラス戸が建つようになっていきます。
建物の構造的には、縁側の屋根があることで、これまた捻じれ倒壊を防いでくれていますし、また横揺れを防ぐ効果も持っています。この縁側の屋根のことを「錣」(しころ)と言います。
お寺の濡れ縁も、同じく柱の座屈を防いだり、床面剛性を強める効果があります。見た目や使い勝手を良くしながらも、建物を強靭なものにして、長年使い続ける工夫をしてきました。ヨーロッパの教会にフライングバットレスが設けられることにより、石積みでも高い建造物をつくれるようになったのも、同じ構造屋の文化だと思います。
このように、「大きな木材断面で構成された建造物が安全である」というのは、最近ようやく言われるようになってきたことです。筋違を使うことを基本とした計算では表現できなかったので、今まで顧みられることがなかったのです。
職人が言うところの、「技術と勘」というものを証明し、実用化できる、そんなコンピューターソフトが一般に普及することを願っています。